源清麿

源清磨は、別名山浦清磨の名でも知られた江戸末期の名刀工である。信濃国小諸の生まれ。刀工になるべく上田藩お抱え刀工・河村寿隆に弟子入りする。

侍を志し上田藩主真田幸貫の斡旋を受け、江戸の軍学者・窪田清音に入門する。刀工としての才能を認められ、窪田清音の屋敷内に工房を設け、作刀をはじめる。作風は、「相州伝」で互の目乱れ、互の目丁子。地鉄に白髪筋と称される銀色の筋が入るのがその典型とされる。

一時期、長州萩に出奔するも、後に清音の赦しが出て江戸に戻る。四谷北伊賀町に住まいし作刀、また、多くの弟子を持ち育成した。その作風と多数の弟子を育成したことから「四谷正宗」と呼ばれた。

しかし、清磨の生涯は、割腹という悲劇で終焉する。飲酒過多による中風で生甲斐の作刀が
叶わなくなった絶望が引き金だといわれている。享年42歳。