日本刀の銘の改ざん

徳川家に一矢報いたいと念じている武将たちは、村正をこぞって収集したとも伝えられ、真田幸村は常に村正を腰にし(『名将言行録』)、薩摩の島津家には村正が三十数口収蔵されたとも伝えられています。また、大名家取り潰しの口実にもなり、寛永十一年(一六三四)長崎奉行竹中采女正は村正を二十四日所持していたのが判明し、本人は切腹、お家は断絶となりました(『元寛日記』)。

時代は移り、江戸末期、西から東海道を江戸へと向かう東征大総督有栖川宮蛾仁親王の腰には村正の刀があったとされています。その村正は現在、東京国立博物館に収蔵されています。

なぜ、村正がこのような講談や伝説を生むようになったのでしょう。それは戦国時代の真っ只中、切れ味を最も求められ、時代の要求に適った作風を生み出したことであり、しかも村正の刃文は、視覚的にも切れそうな感覚で作られているように見受けられます。その意味でも当時の刀工村正は腕達者であったと考えられます。時代の風潮が変わると、無念にも村正は妖刀の汚名を受けることになってしまったようでした。

江戸時代、村正を所蔵している人のなかで、苦肉の策として、村正の銘の「村」を消して、正の下に「宗」の字を加え、銘を「正宗」と改寵した刀があるともいわれているほど恐れられていた村正。変転する時代の中で、刀を維持することの大変さがこのことからも見て取れるのではないでしょうか。

江戸時代における名工村正が作ったものの中には、関ヶ原の戦のとき、家康が敵将戸田武蔵守の首検分の時、織田長益(有楽)の示した村正の槍で指を切ったということです(『三河後風土記』。)。前述にもお伝えした通り、村正は徳川家にとって不吉な刀であったことが伺えます。

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