水心子正秀

水心子正秀は寛永3年に、羽州米沢藩領の中山村諏訪原に産まれました。現在の現在の山形県南陽市本中山に当たります。

江戸時代後期の刀工で、本名は川部儀八郎および鈴木三治郎宅英。新々刀と呼ばれるカテゴライズの祖として知られています。同時に復古刀の祖ともされていて、正秀の一門は門人百に及ぶとも言われていたそうです。

鈴木宅英と称するようになったのは山形へ修行に出て、さらに武州八王子の下原吉英のもとで腕を磨いていたときだそうです。それまでは野鍛冶だったそうで、鍛冶の基礎は下長井小出(現在の長井市小出)の吉沢三次郎に学んだと言われています。

川部儀八郎正秀と名乗ったのは1700年代後半のことで、山形藩主秋元永朝に召し抱えられたときです。水心子と号したのもこのときだと言われています。刀工正宗の子孫、山村綱廣に入門し秘伝書を授けられたあとも研鑽を続け、太平の世では衰退しつつ、また弱い作りになっていた日本刀造りに大きな影響を与えた人物です。

中でも目をひかれるのが、自身が持つ技術を十数冊の本として発行し公開したことです。門外不出が多い技術の中では特筆すべき出来事でしょう。門弟が百余人を数えるのも納得ですね。門弟は北は出羽米沢から南は薩摩までいたそうなので、本当に幅広く門弟がいたことになります。生涯で369振の刀を作刀したというのも驚きです。

長い時を経て鋼を生み出す方法が失われていました。ですので古来の製法に戻すことを提唱し実践した人物でもあるそうです。
新々刀の祖というのはいかに凄い人物なのか、そして刀工としては型破りであったかが伺い知れるようです。